小説はオワコン?
AI小説に興味があります。でもその前に小説に関するあれこれを自分なりに考えてから挑戦したい。特に、漫画や動画全盛の現代にあって小説ってどうよ?って辺りが気になる。小説はオワコンなのか? それとも物語を表現するうえで有力な手段として生き残り続けるのか? 今日も妄想が捗る。
まずは整理
これまで何度も新人賞に応募して箸にも棒にも引っかからなくて、ということで最近はKindle本に挑戦中。石の上にも三年作戦で毎月出したい。今のところ半年クリアだけど先は長いよ。そのうえストックがなくなってきたし。

だからってわけでもないけどAI小説を試す予定。自力でいくつも書いてダメだったんだから、手を変えてAI、って発想です。せっかく新しく始めるならここらでひとつ今まで考えたあれこれを整理したいと思います。
まず文学とは何か? これは『侏儒の言葉・西方の人 芥川 龍之介』の記事で書いた。別にこの本単体を読んで考えたわけではなく、いろんな本を読んだごちゃごちゃ思考の結果です。「文学は人間を言語で表す学問」ってのが僕の個人的見解。

人間を言語で表すにあたり色々な形式があって、そのうちのひとつが小説。他には詩とか、エッセイとかがあるし、言語以外の要素をプラスするなら演劇、漫画、動画もあるよね。小説には純文学とエンターテイメントがある。両者に関しては『職業としての小説家 村上 春樹』の記事で書いた。

ここで気になるがの小説の現状。小説はあまり景気が良くない。その昔、大人は漫画を読まなかった。動画を見ようと持ったら映画かテレビ、それにしたって見たいものが四六時中あるわけでもない。読書の敵は多くなかった。しかし今は敵だらけだ。……ヤバくね?
ちなみに今回はちゃんと下調べした。『「自分で考える力」の授業 狩野 みき』で調べることの重要性を再認識したからだ。とは言ってもコパイロットさんに聞いただけなんだけどね。途中何度か騙されて、KADOKAWA出版方針のソースを求めたらレタスクラブのURL出されたりした。

メリット①敷居が低い
そもそもなんで僕は小説を書きたいんだっけ? 小学生の頃は漠然と漫画家になりたいとか思ってた気がする。でも絵が描けないから小説。……邪道? いやいや一般的な発想でしょ。『あの頃ぼくらはアホでした 東野 圭吾』でも似たような話が出てくる。

漫画⇒小説、映画⇒小説に流れるみたいな感じで、おそらく小説の敷居はハンパなく低い、ように見える。実際にはムズイんだけど、言語は普段から使っているので錯覚しやすいんだと思う。バンドやりたいけど楽器できないから俺ボーカルやる、と同じ流れなわけだ。
書く際の敷居が低い、ってのが小説の大きなメリットだろう。漫画で物語を表現しようとしても絵が描けない人はお呼びでない。動画は機材や映像編集スキル、一緒にやってくれる友達なんかが必要だったりする。その点、文章だったらその気にさえなれば一応誰でも書ける。
スポーツは競技人口が増えればピラミッドが大きくなり、その分だけ頂上が高くなる。ってことは漫画や動画よりも、小説はピラミッドが高くなりやすいわけだ。逆に言えば、漫画に興味あるけど絵が描けない人、動画を作りたいけどスキルがない人がいる以上、小説はなくならないんじゃね?
メリット②山頂で食べるおにぎり
前述は書く側のメリット。でもよくよく考えたら僕が知りたいのはそこじゃなかった。読む側のメリットだった。こちらも相手は漫画&動画で同じだけど、さっきと違って強敵だ。だってユーザー側としてなら絵をかけなくても漫画楽しめるし、スキルなくても動画視聴可能。
さらに厄介なことに、さっきまでとハードルの関係が逆転している。もっとも楽ちんなのが見てるだけの動画、ついでページをめくらなきゃいけない漫画、最後が読む必要あってわりと面倒くさい小説。動画と漫画の差は大したことないけど、小説との間にはかなり高い壁がある。
情報量にも差がある。動画は視覚&聴覚、漫画は視覚、小説も視覚だけど画像ではなくより情報量の低い言語だ。しかも動画でも漫画でも言語情報は使われるので、小説の専売特許ではない。当たり前の話だけど、書く際の敷居が低い分詰め込める情報量は減り、読む際のハードルが上がる。
もちろん言語は文化的、常識的バックボーンを通して超圧縮されている。例えば「青い」という単語は単に色を表すだけでなく、「クール」とか「青春」とか色々連想させる。なんだけど視覚、聴覚も同じような連想圧縮を使えるので情報量の多寡をひっくり返すほどじゃないと思ってます。
ハードルの差、および情報量の差はトレードオフを作り出す。楽ちんで情報量が多いってことは受動的に楽しめるというメリットになるけど、脳トレ的にイマイチ。面倒くさくて情報量が少なければ能動的に頑張らなければならずデメリットだけど、脳トレ的に良い。

『アタマがみるみるシャープになる! 脳の強化書 加藤 俊徳』他に書いてある通りだよね。もちろん脳トレなんて興味ないよって人にだってメリットがある。能動的に頑張って読むことで脳が活性化するわけだ。『脳を鍛える大人の音読ドリル 川島 隆太』の最初に画像が出てきた、気がする。

この本処分しちゃったんであんまりよく覚えてないんだけど、映像視聴中よりも文字を読んでる時の方が脳が活性化している、って事だったと思う。小説は強制的に脳が活性化された状態で楽しむ物語だと考えてます。アンテナが高い状態ですな。音読最強な点はこの際キニシナイ。
小説、漫画、動画いずれであってもアンテナが高い状態の方が楽しめる。同じ恋愛モノでも、恋愛なんて興味ないよって人と、ガチ恋愛中の人とでは楽しめる度合いが違うだろう。興味なければ薄味感想、興味津々なら良くも悪くも大きく心が動かされるんじゃね?
小説は強制的に脳を活性化させ大きく心を動かす。これは山頂で食べるおにぎりに似ている。空腹は最高のスパイス、的な? 頑張った分だけ美味しく食べられるわけだから当たり前っちゃ当たり前な気もするけど。
ということでこれはトレードオフでしかない。手軽にそこそこ楽しめる動画と、面倒くさいけど刺さればめっちゃ感動の小説、漫画はその中間? もちろん作品次第、読む人の個性や状況次第であって、トレードオフの概形は異なりそう。それにしたってだいたいこんな感じじゃね?

その昔『日曜日の読書 阿刀田 高』を読んで読書について考えたけど、現在の僕の見解は上記の通り。だいたいトレードオフであって、あとは個人の趣味。明らかな上位互換、下位互換の関係ではないと思う。俺がかかわるこの分野最強!って自己満足も否定しないけど、脳内だけに留めた方が良さげ。
現状こんな感じ?
小説のメリット①敷居が低い、は明らかなメリットだ。しかしメリット②山頂で食べるおにぎり、はトレードオフ。しかも手軽に楽しみたいっていう世の中の風潮的に不利だ。この風潮を追い風にして、動画はショート化、早口、語尾と語頭を重ねるなどで絶好調。
こう考えるとメリット②はもはやメリットではない。誰も山に登りたがらない、というデメリットと考えて良さげ。噛めば噛むほど味が出るのだとしても、世の中的には噛まずに飲み込める、口の中で溶けるみたい、ってのがお好みだ。
もちろんプロはそんなこと百も承知。ということでなるべく登りやすい山を心掛けエンターテイメント重視になり、さらにはハイキング感覚で楽しめるようにラノベがもてはやされた気がする。作る側が意図した、読者が求めたっていう相乗効果で加速した結果が今じゃね?

僕の大好きな公募スクールのコラム『若桜木虔の作家デビューの裏技、教えます!』でも読みやすさの重要性が目立つ。キャラを立てろ、出し惜しみするな、など手軽に楽しめる小説づくりのコツがテンコ盛りだ。
ただし読みやすいだけだと困る。内容が薄くて考える対象が提示されていなければ、活性化された脳が消化不良に終わってしまう。ということで小説の目指すところはテーマ性を損なわずに読みやすくする、純文学とエンターテイメントの融合っぽい。よく聞く話だけど、やっぱりそれだよね。
いっぽうで漫画も動画もそのあたりは十分わかっている。だからこそお手軽さを損なわず、テーマ性を深めようとしているわけだ。こういうのってもう何十年も前から繰り広げられてきた試みなんだろうけどね。
上記の通りメリット②はほぼデメリット扱いだが、メリット①は揺るがない。作る側として、小説は圧倒的な敷居の低さを備えている。もっともこれだけだと漫画化、動画化の原作として重宝されるだけだろうから、小説陣営としては不満だろうね。
メリット①は供給を増やす。読みやすさアップでメリット②を活かせれば需要が増え、需給とも豊富な巨大ピラミッドであり続けるだろう。メリット②を活かせなければ供給過多になるが、漫画、動画の原作供給源としては使い勝手の良い奴隷になれそう。
後者の場合、小説自体に読みやすさは不要じゃね? どんなに読みにくい小説でも、画像情報が入れば多少はマシになりそう。それにしたって限度ってもんがあり、注目されるには読みやすいに越したことはないだろう。
おそらくそのせめぎ合いの最中が現状。すでに奴隷コースに入りつつあるが、なんとか踏ん張ってる、あるいはすでに敗色濃厚みたいな? じゃあ今後どうなるのかってのが気になるところだけど、長くなったので次回に続きます。






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