*「晴耕雨読その他いろいろ」(2022/3/11)投稿記事の修正転載です
「侏儒の言葉・西方の人 芥川 龍之介」ってネタ帳じゃね?って思った(2022/3/11)
エッセイ……、でいいの?アフォリズム、箴言集とあるが、まあ随筆だよね。少なくとも小説じゃない。でもエッセイってよりもネタ帳みたいに思えました。誰か他の人のエッセイを読んでもそんなこと思ったためしはあんまりない。なんでだろう?
ということで妄想した結果を示すには、まず僕が勝手に考える文学の話をしなければならない。僕は理系人間なので、慣れ親しんだ理系との対比で文学をとらえています。
理系は自然について学ぶ分野です。代表選手はもちろん科学と数学。科学は自然を数学であらわします。数学は科学の女王にして奴隷、ってやつですな。
この関係を文系に当てはめます。文系は人間について学ぶ分野ですから、「自然」の代わりに「人間」が入ることになります。そうすると、〇〇は人間を??であらわす、という関係が出てくる。??の中に何が入るか? 数学はある意味言語なわけですから、??はそのものスバリ言語だと思っています。
〇〇は人間を言語であらわす、ってことですな。言語ってのは国語です。だとすると〇〇の中には国語と並んで文系を代表する学問が入るはず。これはもう文学で良くね? 以上をまとめると文学は人間を言語であらわす、となります。……当たり前と言うかなんと言うか。
中二的表現をすれば、言語は文学の王にして道化、とでもなるでしょうか。でも文学のほうがピエロっぽいよな。対比が崩れるけど、文学は言語の王にして道化? 理系人間の戯言であり、見当違いな可能性もあります。でもわりと単純な考えだからありがちな発想な気もします。
この考えをもとにすると、特に『侏儒の言葉』は言語的な方程式であふれている。これらの方程式を示すために最適な環境を整えて、最適な登場人物を配置して、最適な事件を起こすと小説になるんじゃないでしょうか。
必ずしも小説だけが文学だとは思わないけど、これだけのタネがありながらどうして小説にしなかったのかが気になる。
同じことが『西方の人』にも言える。ここまでキリストに惹かれながら、どうして小説にしなかったのか。さすがの芥川龍之介も対象が大きすぎた? 残された時間が少ないのを知っていたから、と言うと言い過ぎなのかもしれません。ただ単に、それだけの気力が残っていなかったのかも。
もし「唯ぼんやりとした不安」をやり過ごしていたら、たくさんの箴言の中からいくつかをテーマに据えた小説が書かれていたかも。あるいは小説版『西方の人』が完成していたのかも。そう思うと残念で、読んでみたかった気がします。
↓心地よいひなたにいたいんだけど陰ってきたよ、っていう方程式。

↓当然のごとくよろめきも方程式。

↓ラストに向かって粛々と進んでいく方程式。




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