全ては脳トレのため
なぜ自己肯定感が必要? 別に否定的であってもそれをバネにして努力すれば良くね? そう思ってたんだけど、どうやらそうでもないらしい。自己肯定感のある人間の方が脳が働くんだってさ。じゃあ自己肯定感こそが正義だ。ちなみに僕の自己肯定感は69点、この本読む必要なし。

昭和の呪縛
AmazonのAudible、聴く読書を2ヶ月無料キャンペーン体験中。最初に選ぶのは何が良いかなー、ってことでマインドマップが描きやすい実用書、しかも勝手知ったる加藤俊徳先生の脳トレ本を選びました。この試み自体がすでに脳トレだしー。
最初に書いたように自己肯定感の何が優れているのか疑問だった。別に肯定しても良いけど、否定でも良くね? 結論としては脳を使う自己肯定感の方が良いってことで納得だけど、個人的には僕自身の最初の発想に興味がある。
日本の特性として村社会で同調圧力がある、ってのは確かにそうだろう。これはろくでもない悪弊なので排除する必要がある。しかしもう一つ気になるのが謙虚さだ。謙虚さもまた日本の特徴、しかもこれは良い方向に働く特徴だと思う。
同調を無駄と言い切れる僕でも、謙虚さは大事にしたい。しかし謙虚さが自己肯定感にブレーキをかけることは十分に考えられそうだ。俺ならできるぜ! なんて自己肯定感と謙虚さはパッと見で相性悪そう。
もしも謙虚さが単なる伝統ならば、僕は謙虚さを捨てて自己肯定感を取る。だって脳トレしたいしー。なんだけど謙虚さを捨てるわけにはいかない。謙虚さは勉強とすごく相性が良いと思っているから、それを捨てるなんてとんでもない!
何でもできる俺様⇒勉強しない、自分はまだまだと言える謙虚な人間⇒勉強する、的なイメージを持ってます。自己肯定感と脳トレが仲良し、謙虚さと勉強が仲良し、自己肯定感と謙虚さが相性悪いっていう困った図式。脳トレはしたいが勉強は惜しい、河豚は食いたし命は惜しし状態ですな。
これはある意味古くからの日本の呪縛、昭和の呪縛な気がする。謙遜が美徳であり、謙虚な人はエライ。この考え方が根強い昭和人間は自己肯定感を得にくいんじゃね? 呪縛を解かない限りおいそれと脳トレできない気がする。
疑似相関
じゃあどうやって昭和の呪縛から逃れるか? 個人的には発想を変えてみたらいいんじゃね、って思ってます。そもそも脳トレと勉強なんてほとんど同義なものだし、相性悪いはずない。優先順位的にいうとこれがトップに来る。
脳トレ=勉強>自己肯定感、謙虚さ、なわけですな。本のタイトル否定するみたいであれだけど、脳トレは自己肯定感より大事。同様にして勉強は謙虚さよりも大事。自己肯定感も謙虚さも手段であって目的ではない。目的を達成するための便利ツール、みたいな?
僕個人としては脳トレしたいし勉強したい。そのために自己肯定感が役に立つなら使うし、謙虚さが役に立つなら使う、ってスタンス。これなら一見相性悪い自己肯定感も謙虚さも同時に持てそう。全ては脳トレのため、勉強のためなんだし。
脳トレすれば問答無用で自己肯定感が得られる。誰かに認められなきゃいけないってものではないから、行動が直接成果につながる。同じように勉強すれば自然と謙虚さが身につく。試験直前に勉強を始めたダメ学生みたいに、自分がいかに何も知らないかを痛感する。
こう考えると自己肯定感と謙虚さの間には、脳トレ=勉強を介した正の疑似相関がある。自己肯定感と謙虚さの直接的な関係はない。アイスの売り上げと水難事故が、気温を介して疑似相関してるみたいなもんじゃね?
おそらくだけど自己肯定感が脳トレを伴っていない無根拠な肯定の場合、謙虚さとの疑似相関が切れる。同様にして謙虚さが勉強から来るものではない単なるポーズや同調のためならば、やっぱり自己肯定感との疑似相関が切れる。
僕が最初に感じた自己肯定感と謙虚さの相反するイメージは、上記のような疑似相関の切れた状態を想定しているっぽい。脳トレ=勉強を中心に置いて考えると、自己肯定感と謙虚さはむしろ相性が良いってことになる。
……と思うんだけど、かなり発散して我ながら漠然として曖昧になってきた。時間をおいてじっくり考えた方が良い予感。要はアレだ。脳にガンガン刺激を与えて、良い脳トレをするために自己肯定感を利用しよう、って話じゃね?
今までにも左利きやら部屋の掃除やらいろいろ利用してきたけど、全ては脳トレのためですよ。いつもと同じ、平常運転だけど王道は揺らがない良本です。
↓良い脳トレ⇒良い覚醒⇒良い睡眠、の流れに持っていきたい。
↓食わず嫌いに挑戦するのも脳トレ。
↓犯人が警察を甘く見ている傾向あり。
↓損切タイミングが難しいよね。
↓おどろおどろしい雰囲気が魅力的。











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